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太宗 李芳遠

李芳遠(出没:1367~1422、在位:1400.11~1418.8)は、朝鮮を建国した李成桂と一番目の婦人(神懿王后韓氏:1337~1391)の間で生まれた五男で、父の李成桂が朝鮮を建国するのに一番の立役者だったが、朝鮮の初代王に就いた李成桂は、二番目の婦人(神德王后康氏:1356~1396)から生まれた息子達(李芳蕃・李芳碩)を世子(跡継ぎ)にしたため、これに反発した李芳遠は1398年、腹違いの弟(李芳蕃・李芳碩)と反対派の鄭道傳等を除去し、李成桂の2番目の息子であり李芳遠の2番目の兄である李芳果(後の2代王の正宗)に世子の位を譲る。これを「第一次王子の乱」と言う。
李芳遠と一緒に「第一次王子の乱」を起こした李芳遠の4番目の兄李芳幹(1364~1421)は1400年、王の跡継ぎの位を巡って挙兵し李芳遠と対立するようになった。これを「第2次王子の乱」という。第2次王子の乱を制圧した李芳遠は、兄李芳幹を流刑し反対派を排除してとうとう1400年11月には3代目の王に就いた。

李芳遠は1382年に元敬王后閔氏(1365~1420)と結婚した。1383年には高麗の科挙制度で文科に合格したことから学問にも励んでいたことが伺える。血の争いを繰り広げ次々と兄弟や親戚を除去して王になった太宗李芳遠は、王権を強化するために、第一次王子の乱と第2次王子の乱で活躍してくれた、1番目の婦人元敬王后閔氏の弟4人(閔無咎・閔無疾・閔無恤・閔無悔)が勢力を強化するのを恐れて賜死し、元敬王后閔氏との関係が悪化した。
1418年には王位を3番目の王子世宗(李裪:1397~1450)に次がせたが軍権だけは握っていて数年間の間政治にも干渉した。王の外戚の力が大きくなるのを警戒した李芳遠は世宗の婦人の父である沈温(1375~1418)の一族も賜死して除去した。

自分の権力を守るためには血も涙も無さそうな人物に見えるけれども、高麗の科挙で合格したこと、第二次王子の乱の政敵だった兄李芳幹を最後まで殺さなかったこと、長男の讓寧大君(1394~1462)を3男の世宗が王世子になる直前まで廃位させなかったことなどを考えると意外と人間味のある人物かもしれない。新しく建国した朝鮮初期の混乱した時代から王権を強化し政治的にも安定させ、4代目の王世宗の時代には朝鮮社会の色んな分野で全盛期を迎えることができた。
「天下のすべての汚名は私が担いで去るからあなたは歴史に聖君として名前を残しなさい」太宗李芳遠はこのような遺言を世宗に残して死んだという。太宗の陵はソウル市瑞草区内谷洞にある獻陵である。
(2011.7.11 ※参考本:「眠れない歴史、朝鮮王陵」