| 一方1368年に建国された明は、元の支配にあった高麗の領土で、1356年恭愍王によって奪還した鐵嶺以北の領土に、鐵嶺衛という明の地方官庁を立てると言いながら公式的に脅して来た。これにたいして高麗では明の遼東地方を征伐しようと言う派(崔瑩派)と、これに反対していた派(李成桂派)に分かれていたが、結局遼東征伐が決まり遼東に向かっていた李成桂は途中の威化島で軍を回軍させ首都(開城)に戻り、反対派を潰して実権を掌握した。これまでの経緯を「威化島回軍」と言う。 1392年7月朝鮮王朝を開き太祖となる。
1394年10月(旧暦)に首都を開城から漢陽(ソウル)へ遷都。
李成桂には正妃(神懿王后韓氏:1337~1391)から6人の王子、継妃(神德王后康氏:1356~1396)から2人の王子がいたが、李成桂はこの中で継妃神德王后康氏から生まれた李芳碩を特に可愛がっていて世子として冊立した。しかし朝鮮建国に父李成桂を助けて大きく貢献してきた正妃神懿王后韓氏からの5男李芳遠は不満が多く、李芳碩をかばう朝鮮建国の功臣鄭道傳一派と神德王后の王子たちを自分たちを害しようとしているという理由をあげて殺した。(※これを王子の乱という)。この事件に大きく落胆した李成桂は次男の永安大君李芳果に王位を譲って引退し、故郷の咸興に戻った。
晩年には仏教に専念したそうで、昌徳宮で74歳で死んだ。李成桂の眞影は北朝鮮咸鏡南道永興郡の濬源殿と韓国全羅北道全州市の慶基殿に所蔵されていて、陵は京畿道九里市にある建元陵。※太祖李成桂の子供と婦人。
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