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聞慶旅行記

堤川旅行記 ← 今日は忠州バスターミナルから午前10時頃出発した。聞慶(문경)バスターミナルまでは1時間ほどかかった。聞慶市は1995年に聞慶郡と店村市が合併して聞慶市になったけど聞慶バスターミナルは聞慶邑に所在していて利用客は少なく、以前の市街だった店村市外バスターミナルの方が利用客も多く有名なのでバス路線も豊富だ。だから忠州バスターミナルで聞慶行きのバスを探す時は店村(점촌)という地名を知って置く必要がある。忠州バスターミナルから店村行きのバスに乗ると大体は聞慶バスターミナルに停まる。

朴正熙と青雲閣

聞慶バスターミナルから今から行こうとしている聞慶セジェ(문경새재)までは4キロほどあるけど、バスも少なく歩いて行くことにした。ターミナルから大通りに出て聞慶道案内標識を見たら青雲閣(청운각)と書いて朴正熙大統領がお住まいになった所と説明まで書いてあった。遠くに月岳山(월악산)がバックに見える土田舎の聞慶は民族の裏切者朴正熙を売り物にしていた。青雲閣は1937年に大邱師範学校を卒業した朴正熙が、日本帝国の満州軍官学校に血書志願して入学する前に3年間、ここ聞慶普通学校で教師を務めていた時に住んでいた家だ。

青雲閣の入口には朴正熙の弟子たちが書いたという朴正熙をほめる偽りの説明書きが書いてあった。そこには「先生では日本人に勝てないから銃刀を持ってきて勝ってやる!」と朴正熙が教師を辞めて満州軍官学校を志願した理由を説明しているが、朴正熙は満州軍官学校を卒業した後、日本陸軍士官学校を経て関東軍に配属され韓国が日本の支配から開放されるまで独立運動家狩りをしていた奴だ。民族の裏切者が大統領になることによって南の韓国では日本植民地時代に民族を裏切って日本に協力した奴らが支配階級になり朴正熙と癒着していて、朴正熙が死んだ後は朴正熙を英雄化して自分たちの過ちを揉み消そうとしているのだ。青雲閣の中には青雲閣と2番目の婦人陸英修の写真が飾ってあった。

聞慶セジェ第一関門
聞慶セジェ科挙の道

聞慶セジェ(鳥嶺)科挙の道

青雲閣から大通りに出て1キロほど歩くと登り窯が見えて来た。陶磁器で有名な利川の陶芸村でも登り窯は数少ないけど、ここでもまだ登り窯から陶磁器を作っていたとは面白い発見だ。この辺には十数か所ほど釜があるようだ。ここからさらに1キロほど歩くと聞慶セジェと書かれた大門が現われた。広い駐車場や店が並んだ道を通り抜けると古道博物館(옛길 박물관)が見えて来た。聞慶セジェのセジェ(새재)は漢字では鳥嶺と書き、鳥も休んで越える峠(嶺)との意味であけど、昔韓国の南地方に住んでいた人たちが首都ソウルに行くためにはこの道を通らなければならなかった。特にソウルで行われる科挙の試験に受けるために大勢の人たちがこの道を通ったことから古道博物館が出来ている。博物館から出ると第一関門が見え、聞慶セジェ科挙の道(문경새재 과거 길)と書かれた石が見える。この第一関門あたりはよく韓国の時代劇の撮影現場として使われるので見て嬉しかった。第一関門の裏には嶺南第一関と書いて歩けど韓国の南地方の慶尚道地域を嶺南地域とも言う。嶺南地方とは鳥嶺の南地方との意味なのだ。

金宗直と弔義帝文

第一関門を過ぎてすぐKBS撮影所が見えた。ここはKBSの時代劇太祖王建の撮影所としても知られていて別途入場料が必要だった。山道を1キロほど登ると第二関門が見える。ここまで来る途中で最近放送されている時代劇「廣開土太王」のスタッフにもぶつかり、この辺が時代劇の撮影に使われることを実感した。第二関門から2~3キロほど登ると最後の関、第三関門に出る。第一関門から第三関門まで3時間ほどかかったのだろうか。8月の終わり頃の山道にはセセラギが流れていて綺麗な音を聞かせてくれた。大都会では絶対経験できない自然の風景と音だった。この第三関門を越えると慶尚北道から忠清北道へ入ることになる。ここからは下り道だろうからここで一休みしようと思って関門の片隅にある日陰に座って第三関門を眺めていた。ところが足元にある石の表面に昔この道を通った人が感想を歌った詩が書いてあったので誰だろうと思って名前を見たら金宗直だと書いてあった。意外な発見だ!金宗直(1431~1492)が書いた ③弔義帝文 という文章が原因となって、金宗直の死後1498年には ②戊午士禍 が起き、数多くの人が死んだ。なぜここで金宗直かというと最近見ている歴史ドラマ「姫の男」と関係があり、今回の旅行で堤川とここ聞慶に来ようと思ったのもドラマに刺激されたからだ。

ドラマ「姫の男」では王座を狙った首陽大君(世祖)と忠臣金宗瑞(1383~1453)の対決から展開し、金宗瑞の息子と首陽大君の娘のラブストーリーになってしまう。しかし歴史のことを言えば、首陽大君(世祖)によって王座を奪われ、江原道寧越(영월)に流された幼い王(端宗)は結局叔父の首陽大君によって殺され川に投げられた。この残忍なクーデタを金宗直は ③ 弔義帝文という文を用いて批判した。しかし弔義帝文を書いた金宗直が死んでから6年も経ち、金宗直の弟子金馹孫によって王様(成宗)の実録の史草に載せられた。当事者の世祖も端宗も金宗直もすべて死んだけどこれが ①士禍 の原因となって金宗直は墓から掘り出され打ち首になり、金馹孫も死刑され、多くの儒学者たちが殺されたり権力から除外された。

首陽大君がクーデタを起こして王になったのが1455年、2年後(1457年)姪を殺して反対派を除去した。これで首陽大君(世祖)は王位の正当性を確立したかのように見えた。しかし41年後(1498年)世祖の曾孫の時代(燕山君4年)に弔義帝文に触発された戊午士禍が起き、世祖政権が不正義であると思っている人がどこかに存在し、暴力や乱暴に耐えて我慢していただけだったことが分かる。戊午士禍は結局多くの儒学者を殺して鎮圧された。しかし世祖が姪の端宗して110年後、1567年に金宗直の位牌を祀った禮林書院が慶尚南道密陽に建てたれた。さらに102年後1669年には王が認めてくれた書院となる。つまり金宗直が弔義帝文をもって世祖政権を批判して212年後、彼が正義であることを世祖の子孫が認めたとのことだった。もっと正確言えば世祖の子孫ではなくその時代の人々が世祖政権の不正義さを公に認めさせたと言える。歴史が語ってくれるようにいずれ正義は勝つ。聞慶セジェ第三関門の前で金宗直が石に刻んだ詩を見てこう思った。第三関門を潜り抜けると忠清北道槐山郡へ入るようになる。→忠清北道槐山郡

士禍:朝鮮中期に士林派が勳舊派によって被害を被った事件。新しく中央政界に進出した士林派の人たちが既得権力(勳舊派)によってけん制され被害を被った一連の事件で、1498年の戊午士禍、1504年の甲子士禍、1519年の己卯士禍、1545年の乙巳士禍がある。

戊午士禍(무오사화):1498年(燕山君4年)、金宗直が書いた弔義帝文が成宗実録の史草に載ったことを口実に、既得権力の勳舊派が新興勢力の士林派を排除した事件。

弔義帝文:世祖(朝鮮7代目王)は実の姪端宗から王座を奪ったあげくに端宗を殺した。これについて金宗直は1457年(世祖3年)10月に見た自分の夢の話を中国の昔話に例えて世祖を批判し、端宗の冥福を祈った文章。この文は金宗直の死後彼の弟子金馹孫によって成宗実録に載った。