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5・18民主化運動の発端と展開

1979年10月26日、5・16軍事クーデターで政権を取ってから18年間の長期政権を握っていた朴正熙大統領が金載圭中央情報部長の銃弾により死亡した。維新独裁の没落も束の間、全斗煥を中心とする政治将校集団が12月12日クーデターに成功、政権奪取のための陰謀を進めた。1980年春、大学は学生会の復活運動とともに、「戒厳令解除」「維新残党退陣」など政治の民主化を本格的に要求し始めた。

1980年5月17日、「新軍部」は法に反して政権を掌握するため、全国に非常戒厳を拡大した。5・17戒厳の拡大は、1979年10月26日以降高まっていた大多数の国民による民主化への欲求を正面から否定するものだった。

新軍部はすでに各地域に戒厳軍を配置、自分たちの陰謀をさらけ出し、光州で作戦名「華麗なる休暇」を実行に移した。民主化への熱気が高かった光州では5月18日、大学生らを筆頭に非常戒厳の拡大に反対するデモが行われた。

抗争の導火線は、5月18日午前10時、全南大学正門前から始まった。戒厳軍の強硬鎮圧に追われた学生たちは錦南路など市内へ移動してデモを繰り広げた。デモに参加していない市民までこん棒で殴り、強制的に連行する戒厳軍の残虐さに憤った市民たちがデモに加わり始めた。さらに、光州市内の高校生たちがデモに参加し、タクシー運転手たちが中心となった約200台の車両デモ隊が道庁に押し寄せた。歪曲報道を続けていた光州MBC放送局は、憤慨した市民たちによって炎に包まれた。 5月21日、戒厳軍は道庁前で戒厳当局の謝罪を求めていた市民に向けて無差別銃撃を行い、道庁前の錦南路一帯が血の海と化した。以降、市民たちは武装を始め、戒厳軍に立ち向かった。抗争期間、光州は外部と遮断された孤立無援のまちとなってた。

市民たちは光州の惨状を伝えるため全羅南道地域へと抗争を拡大していく一方、社会各界の名士たちによる「5・18収拾対策委員会」を構成、戒厳当局と交渉を行うなど事態の収拾に渾身の努力を傾けた。しかし、5月27日早朝、戦車を先頭にやってきた戒厳軍は、抗争指導部が最後の抗戦をしていた全南道庁を武力で鎮圧した。 そして、5・18民主化運動は数多くの死傷者を出し、10日間にわたる歴史の幕を下ろした。民主主義が圧殺された瞬間だった。

5・18民主化運動の影響

アメリカがクーデター軍を暗黙に政権として認めたので韓国の学生運動や民主化運動関係者からの反米感情が高まるようになった。

韓国の保守波と言われる者はクーデター軍を認める勢力で、5・18民主化運動の精神を重んじる人たちは進歩と言われている。5・18民主化運動をどう評価するかによって韓国社会が保守と進歩2つに分かれるようになった。つまり5・18民主化運動を反乱として見るのは保守(主に老人)で5・18民主化運動を光州事態と言っている。民主化運動として思っている人たちは現代人である。

民主化運動で歌われた民衆歌謡