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高麗の滅亡と朝鮮の建国

高麗の滅亡

高麗31代目の王、恭愍王(1330~1374)の改革に対する努力が失敗に終わると、高麗社会の矛盾はもっと深刻になった。権門勢族が政治権力を独占し、大土地の所有を拡大して行き、政治の紀綱が乱され、国民の生活は非常に厳しくなっていた。一方、北方では紅巾賊(こうきんぞく)が侵入して来ることにより、恭愍王は南の安東まで非難したこともあり、南方では倭寇の略奪が続いて海岸地方は荒れ果てていた。これに対して高麗は積極的に北と南の外賊を討伐するための作戦を遂行した。この過程で崔瑩(1316~1388)と李成桂(朝鮮1代目の王、1335~1408)が大きい戦果を挙げ民衆から信頼を得た。こんな中で明(中国)が元の管轄化にあった高麗の領土を自分の物にしようとし、崔瑩は李成桂を使い遼東征伐を命じた。しかしこれに反対していた李成桂は、途中にある威化島で兵を戻らせ(1388)、崔瑩を除去した後、軍事的実権を掌握した。李成桂を中心とした改革派(革命派)の勢力は、禑王(高麗32代目の王,1365~1389)や昌王(33代目の王,1380~1389)を続けて廃位させて恭讓王(高麗最後の王,1345~1394)を立てた後、田制改革(土地改革)を進め、朝鮮を建国するようになった。

朝鮮の建国

高麗末期の改革派には、李穡(1328~1396)、鄭夢周(1337~1392)などの高麗王朝の枠の中での改革を主張する多数の穏健改革派と鄭道傳(1342~1398)を始めとする高麗王朝をひっくり返そうとする急進改革派があり、李成桂と急進改革派は穏健改革派を除去し、李成桂は恭讓王から王位を譲ってもらい朝鮮を建国した(1392)。太祖李成桂は、朝鮮の首都を漢陽(ソウル)に移し(1394)、景福宮、宗廟、ソウル城などを建てて行った。

太祖李成桂太祖 李成桂(在位、1392~1398)

朝鮮一代目の王。全州李氏。咸鏡南道永興生まれ。李子春の次男。

三峰鄭道傳三峰 鄭道傳(1342~1398)

朝鮮を開くにあたって文物制度を整えるのに大きく貢献した人は鄭道傳であった。彼は民本的統治規範を設け、宰相中心の政治を主張した。また高麗末期に乱れていた仏教を批判し、儒学の性理学を統治理念として確立させた。

太宗李芳遠

(朝鮮3代目の王、1367~1422)太祖李成桂が朝鮮を建国するにあたって、反対派を除去するのに大活躍した人物で、李成桂の1番目の婦人の5男。
太祖李成桂には1番目の婦人から6男2女がいて、2番目の婦人からは2男1女がいた。李芳遠は一番目の婦人から生まれた5男だったが、父を手伝い朝鮮を建国するのに活躍をした。しかし、父の李成桂と鄭道傳を始めとするグループは、2番目の婦人から生まれた腹違いの年下の弟を皇太子に立てようとする、これに李芳遠が憤慨し乱を起こしたのが1次王子の乱である。ここで鄭道傳と2番目の婦人から生まれた弟を殺し、一番目の婦人から生まれた2男(正宗)を王に建てる(1男は建国後病死)。
一次王子の乱で活躍した李芳遠の兄(4男)は王座に欲があり、同じく一次王子の乱で貢献した朴苞と言う人が待遇に不満を持っていた。この二人が意気投合し5男の李芳遠と対立したのが2次王子の乱である。ここで李芳遠が勝ち、4男は流され、朴苞は殺される。これによって2男の正宗は5男李芳遠を皇太子に建て、同じ年に李芳遠が朝鮮3代目の王になる。※3男は権力に欲がなかったと言う。※朝鮮建国初期には、王子もそれぞれの兵を持つことができたから王子の乱を起こすことができた。

世宗大王

(朝鮮4代目の王、1397.4.10~1450.2.17)
太宗李芳遠は1番目の婦人から4人の男をもうけたが、世宗はこの中で3男だった。もともとは長男(讓零大君)を皇太子にしたが厳しい儒教の規律や宮廷生活に合わず廃位される。世宗が皇太子に立てられてからは風流を楽しみ、書道にも優れていて崇禮門(南大門)の額を書いたと言われている。
太宗李芳遠の2男(孝零大君)は、篤実な仏教信者で、彼の墓がソウル地下鉄2号線の駅(方背駅)近くにある。
3男の世宗大王は22歳に王になった。ハングルを作り出した。偉大な業績をたくさん残したため大王の文字がいつも付いている。王座を狙って実の兄弟との殺し合いをした父からこのような偉大な人物が生まれたのは興味深いことで、恐るべし太宗李芳遠があってこそ世宗大王のような人物がうまく政治をすることができたとも言われている。