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東仁川

花島鎮(화도진)

花島鎮は高宗19年(1882年)5月22日、欧米諸国としては初めて全権大臣ロバート・ウィルソン・シューベルト提督との韓米修好通商条約が調印された場所として知られている。花島鎮は高宗14年(1877年)10月、日本の花房義節が開港交渉のため来韓し、全羅道方面の測量を行った後に上京する見込みであるとの報告を東来府使から受けた朝廷にて対策を論議、これに対する対応策として仁川、富平沿岸の防衛問題が提起され、高宗15年(1878年)8月に仁川広域市東区花水洞128~163番地とその周辺一帯に設置された。当時、ソウルに向かうすべての船はここ仁川を通らなくてはならず、地理的にも最も重要な場所であった。鎮とは鎮営の縮約形で朝鮮時代の初め頃から地方隊の俊英軍として各水営、兵営に置かれたもので、鎮址とは鎮があった場所を言う。李氏朝鮮末には黄海からの外国勢力の侵入を防ぐべく砲台が設置された場所でもある。

水道局山博物館(수도국산 박물관)

水道局山タルトンネ博物館は1960~1970年代のタルトンネ(貧しい人々が集まる高台の集落)の庶民の生活をテーマにした体験型の第1種近現代生活史専門博物館として2005年10月25日に開館した。延べ面積1,950.85㎡の地下1階、地上1階の博物館は東区松現洞163番地、松現近隣公園内に位置している。博物館は当時を経験した世代には郷愁を、若い世代にはかつての生活を理解する教育の場として活用されている。 水道局山タルトンネは仁川で育った人々には懐かしい故郷とも言える場所である。仁川で3世代に渡って暮してきた仁川っ子ならば「水道局山」と言えば「タルトンネ」と思い浮かべるであろう。タルトンネは現在でも全国の大都市の周辺に残る都市産業化の副産物と言えるが、特に水道局山タルトンネはその中でも由来及び歴史の深い場所である。 東区では歴史に埋もれて忘れ去られようとしていた水道局山タルトンネの生活を後世に伝えるべく、かつてのタルトンネの場所に博物館を建設した。記憶から消えかけていた水道局山タルトンネの庶民の平凡な生活と日常を博物館の主なテーマとした点は韓国の博物館においても異例のものとして注目されている。

松現配水池制水弁室

仁川は元々井戸が少なく、加えて水質も良くなかったため、開港以降、人口・船舶が増加するにつれて水の確保が最大の課題となった。また、10世紀の初めの全国的な伝染病の流行が契機となり、仁川居留の日本人を中心に上水道の建設計画が本格化した。 衛生及び警備上だけでなく、陸海交通及び軍事上の切迫した必要性を感じていた統監府の圧力により韓国政府は1906年、度支部に水道局を新設し、同年11月に着工、1910年9月、漢江沿いの鷺梁津水源池に機関室、沈殿池、ろ過池などの施設と近隣の山頂に浄水池、仁川松林洞の水道局山に配水池を備えた施設を竣工し、同年10月30日、歴史的な通水式を執り行った。

昌栄初等学校校舎(창영초등학교 교사)

昌栄初等学校は1907年、完全な韓国資本で設立された仁川の公立初等学校である。一の字型の単純な配置で壁の上段は御影石を使用してアーチ型を成し、玄関は迫石を用いた初期近世風様式の建物である。

仁川基督教社会福祉館(인천 기독교 사회복지관)

19世紀末にアメリカ監理教会の宣教師達の宿所として建てられたものの内、現存している建物である。この一帯を宣教の基地とすべく尽力した監理教のジョーンズ(Geouge Heber Jones)宣教師が1892年に仁川へ赴任し、翌年1983年に土地を購入、1894年までに3棟の建物を建築した。 日本の植民地支配からの解放後、1949年4月に米国監理教宣教師ヘレン・ボイルズによって「仁川基督教社会館」として再び利用され、仁川地方の社会福祉館としての機能と社会福祉事業の母体としての役割を担うこととなった。

英花初等学校本館棟(영화초등학교 본관)

宣教を目的とした新式教育のために設立された英花学校の現校舎は1909年、牛角峴に1,226坪の敷地を購入し、1910年3月30日に竣工、1911年9月14日に延べ面積212坪の3階建て校舎が完工した。丘の上に校舎、その南側に運動場を配置しており、当時としては珍しく校舎の上の階から周囲を見渡す眺望を備えたものであったと思われる。増築された部分を除いては原型がそのまま保存されており、平均227×109×59の大きさの在来式レンガを用いたレンガ造りの建物である。レンガの積み上げには角や端に半切を使用せず、七五サイズを使用して積み上げた後、仕上げを行うオランダ式を採用している。