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扶余旅行記

以前忠清北道の沃川旅行に一緒に行ってた知人からまた旅行に行こうと誘われた。何処に行こうかと思い、以前から百済の地に行きたかったので扶余(扶餘:부여)へ行くことにした。扶余は百済の2番目の首都だった熊津(公州)から国名を南扶餘と名乗りながら538年に遷都し、百済が滅亡する660年まで約120年間百済の3番目の首都だった。扶余は泗沘(사비)とも言われた。

百済は歴史的に日本と深く関係があり、日本に多大な影響を与えた。漢字や仏教を日本に伝えたのも百済である。奈良や京都など関西地方を旅行した時から百済との関連性を感じ、韓国の百済の地である公州と扶余に行って見たかった。日本と百済の歴史的関係については次の平成天皇の発言からよく分かる。

明仁天皇は2001年12月18日の記者会見で、「私自身としては、桓武天皇(737~806)の生母(高野新笠が百済の武寧王(扶餘斯麻:462~523)の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」と発言した。参考:平成天皇『 韓国とのゆかり』発言

扶余を目的地として選んだ一番の理由は、司馬遼太郎(1923~1996)が書いた「韓のくに紀行」という本を読んでいる内に、その歳の日本人の韓国に対する歴史観が歪んでいることが分かり、司馬が行った歴史の地を自分の目で実際に見て真実は何か確認したかったからだった。

ソウル出発 扶余到着

ソウルから扶余へ行くにはソウル南部ターミナルからバスを利用するのが一番よく、扶余行きの高速バスが朝の6時30分から夜の8時まで30分置きに出ている。ソウルから扶余までは2時間かかるが、時々天安と公州によって扶余に行く緩行のバス(所要時間3時間30分)もあるのでバスに乗る時に「扶余直行ですか?(부여직행이에요?)」と運転手やチケット販売員に確認した方がいい。

木曜日の午前11時バスに乗ったら乗客も少なかった。バスは2時間の間パーキングエリアにも寄らないで走り続けて、ちょうど2時間で扶余ターミナルに到着した。ガイドブックも欲しかったのにバスターミナルには観光案内所が無くて、人に聞いて10分ほど歩いて扶蘇山城(부소산성)入口の観光案内所へ行った。案内のアジュンマ(おばさん)が言うのに、扶余観光の中心は定林寺址五層石塔(정림사지5층석탑)だそうだ。この石塔を中心に扶蘇山城、宮南池、扶余博物館、バスターミナル、繁華街が散在するとの話だったのでまず石塔(定林寺址)の方に向かった。定林寺址の中に立っている石塔は以前平済塔と呼ばれていた。平済塔とは、660年に唐と新羅の連合軍によって滅亡した百済に唐軍の総司令官として来た蘇定方が自分の功績を残した石塔である。以下は司馬遼太郎の本の中にある内容である。

百済塔(平済塔: 定林寺址五層石塔)

扶余の地にただひとつ遺されている百済時代の構造物ある。「百済塔」とよばれている石造五重塔がそれである。場所はこの町のほぼ中央あたりの平地にあり、石塔の大きさからみて百済時代ではよほど重要な官寺がこのあたりにあったものと想像される。しかしすべてが謎である。都も寺もそれを語るべき記録もすべて百済の滅亡とともに湮滅(いんめつ)した。口碑(こうひ)さえない。ただ石塔だけが、風雨にさらされている。百済の滅亡からかぞえても1300年以上という歳月にこの石塔は耐えてきている。

日本の近江蒲生郡(おうみがもうぐん)は「日本書紀」によってわかるように百済からの渡来人がひらいた土地だが、その蒲生郡に石塔寺(いしとうじ)という寺があり、丘陵(きゅうりょう)上に石塔三重塔が立っている。この石塔三重塔も由緒が謎だが、瓜二つといっていいほどにこの扶余の「百済塔」と似ている。

「扶余の王都はことごとく砕かれた。しかしこの石の塔だけは残った。なぜ残ったか」と、李夕湖先生は、塔の第一層の石面を指した。碑文が刻まれていた。この塔はその碑文があるために破壊をまぬがれたのである。しかも碑文は、塔の由来のためのものではなく、「おれが百済をほろぼした」という意味のことをきざみつらねたもので、唐の大将軍蘇定方(そていほう:592~667)の戦勝記念碑なのである。唐軍は勝利をおさめた。すぐさま長安へ凱旋(がいせん)しなければならないが、唐将蘇定方は自分の軍功を百世にのこすために記念碑をつくろうとした。が、碑をつくるだけの時間がなかった。たまたま焼野原になった扶余に、この石塔だけが残っていた。「あの塔をこわすな。塔に碑文を刻みつけろ」と、蘇定方は言ったに違いない。仏塔に自分の血なまぐさい軍功を自賛した文章を刻むなど非常識ではあるが、蘇定方は13万の遠征軍の総司令官にえらばれた男だけに度はずれた乱暴者であったに違いない。(中略)

「平済塔」と呼ばれている。百済を平ぐという意味で、すこしくわしく呼称する場合は、「唐平百済塔」とよばれる。「唐が百済を平げた記念塔」という意味である。(中略)。「平済塔」という、自国が征服されたという意味の塔を千数百年も大事に保存してきたというのは、わが朝鮮人の人の好さを示す証拠かもしれない。破壊するか、碑文を欠き落としてしまうというほどの乱暴者が、千数百年ものあいだに一人でも出てよさそうなものだと思うが、それがついに出なかったのは、その後の朝鮮史における中国の重味と中国への遠慮を物語る機微(きび)といえるかもしれない。朝鮮という、この地理条件のなかで国を保つということは、この塔ひとつをみてもわかるように、それ自体がつねに苛烈で悲痛なのである。出所:「韓のくに紀行」p257より。

扶余博物館(百済金銅大香炉)

定林寺址から10分くらいあるいて扶余博物館に到着した。扶余博物館には1993年に百済遺跡の発掘調査の途中に発見された百済金銅大香炉が展示されている。司馬遼太郎が「韓のくに紀行」を出版したのが1978年だから彼の本には載ってないが当時発見されていたらきっと言及したに違いないと思う。それほど私はこの百済金銅大香炉を見てその美しさに感動したのである。

扶余博物館には定林寺址から出土された小さい百済の人物像もあるが、頭の装飾を見ると日本の伝統装飾と非常に似ていた。倭が百済の地方分国(擔魯国)だったという説もあるがこのような遺物から見ると百済と倭(やまと)は常識を超えた非常に密着した関係だったことが分かる。

宮南池

扶余博物館から川の方に5分ほど歩くと宮南池(궁남지)に出る。宮南池は韓国最初の人工池で蓮畑になっている。扶余の郷土史学者である李夕湖(元扶余文化院長)氏は2008年5月20日に、約2000年前の蓮の種から発芽した大賀蓮を日本からもらって扶余郡に寄贈したが、この宮南池では大賀蓮も見ることができる。一方説話では百済30代目の王の武王(扶餘璋)が育った場所として伝わっている。この百済の武王と新羅の善花公主の恋物語は薯童謠という歌として伝わっていて2005年には同名のドラマも放映した。

宮南池から宿泊の百済館(扶余韓屋生活体験館)に電話したら管理人が迎えに来てくれた。百済館は伝統家屋を扶余郡が買収して伝統宿泊体験館として運営していてホテルのように食事はできないけど台所はあった。共同トイレと共同シャワーはちょっと不便だけど伝統家屋で泊まる経験はホテルでは感じられない気持ちよさがあった。(電話:041-832-2722)

百済館に荷物を置いて30分ほど歩いて繁華街に出た。カキの定食とチヂミにマッコリを飲んだ。カキ料理も悪くはなかったけど、後で考えると扶余は蓮飯(연잎밥)が有名だった。宮南池一帯が蓮畑になっているせいか蓮飯はこの地域の名物になっているみたいで、また今度扶余に行ったらぜひ蓮飯を食べてみたい。7月の宮南池は蓮が満開して綺麗だそうだ、さまざまな蓮の中で大賀蓮を探してみるのも楽しいだろう。

百済王陵園(陵山里古墳群)

翌日の朝百済王陵園に向かった。百済王陵園は百済が扶余へ遷都した538年から滅亡する660年までに造成された王陵で全部で7基の古墳が集まっている。日本は1915年、1917年、1936年3回にかけて発掘調査したがこれといった副葬品は無かったと言う。百済と倭の密着した関係からして盗掘であれ日本の意図であれ日本のどこかに潜んでいる可能性がある。1993年には百済王陵園の隣にある寺址の発掘調査から百済金銅大香炉が発見され扶余博物館に所蔵されている。

百済王陵園の入口には百済31代目の王(義慈王)の仮墓が作られている。百済最後の王の義慈王は、660年7月唐と新羅の連合軍に降伏し、9月に唐の蘇定方によって12895人の百済人とともに唐に連れられ、その4月後に唐の地で死んだ。1995年からの努力で2000年9月に義慈王の墓地と予想される場所の土を持って来てここに仮の墓を作ったとの記録が石碑に書いてあった。

扶蘇山城

百済王陵園からタクシーを拾って10分くらい走ったら扶余郡の中心部にもどり扶蘇山城に到着した。扶蘇山城は百済時代に作られた山城で、三国遺事の記録では新羅・唐の連合軍に追い込まれた百済の女性たちが川へ身を投じたと言い、落花岩と呼ばれる場所が一番有名だ。その落花岩へ上る前の中腹の所に百済の忠臣3人の位牌を祀る三忠祠と言う神社がある。この神社は1957年に建てられたが、その前は扶余神宮が建てられた場所だった。日本は植民地時代に韓国全土に1141個の神社を建てたが、その内社格の高い官幣大社はソウルの朝鮮神宮とこの扶余神宮の2個しかなかった。この事実から日本が思う扶余の重さが推測できる。以下は司馬遼太郎の本の中の三忠祠の部分である。

三忠祠(扶余神宮)

「日帝」はその支配する土地に神宮をたてるのがすきであった。ソウルの南山にも朝鮮神宮というのをたて、他民族に対して不遜にも天照大神と明治天皇を祭神とし、大正9年(1920年)着工、同14年(1925年)竣工、境内7千坪、社格を官幣大社とした。「日帝」時代の国家神道にあっては、官幣大社というのは最高の格式である。

むろんこのソウルの朝鮮神宮は「日帝」の朝鮮侵略の象徴的存在として朝鮮人の憎悪のまとになり、戦後いちはやくうちこわされた。当然なことであろう。

しかし朝鮮人の通癖(つうへき)として、観念で激情する。いつだったか、いまソウルの日本大使館が手狭なため適当な土地をもとめているがソウルの世論がなかなかそれを許さない、ということが新聞に出ていた。たとえば土地さがしのある段階でソウルの南山に敵地がみつかったとき、ソウルの新聞は「日本はかの朝鮮神宮のあとに大使館をたてることによってふたたび韓国に野心の手をのばそうとしている」と激しく攻撃した。珍無類な攻撃のしかただが、しかし朝鮮人はいつの時代からそうなったおか、現実よりもむしろ観念で激しく昂奮するのである。

もっとも日本の若者が極左や極右になる場合も、かつて同祖であった血が騒ぐのか、他民族にはちょっと考えられぬほどに観念の一大震動体になり、政治青年という古代シャーマン(巫人)そのままの憑依(ひょうい)的人格になる場合が多いから、われわれは原型としては似ているのである。

さて、李夕湖先生である。先生のいう「扶余神宮」というのは、どうやら第二次大戦のさなか、朝鮮総督府が、日本の利益の上に立った当時のいわゆる「内鮮融和」と目的として立案されたものらしい。当時の「日帝」にすれば、かつて上代日本と百済とは同盟国であり、しかもともに唐・新羅の連合軍とたたかったということで、おそらくこの扶余の片田舎にそういう神宮を建てようとしたのであろう。

昭和15年(1940年)ごろだったか、「日帝」は大和の橿原神宮の規模を大きくしようとし、その土木のため全国の中学生の勤労奉仕団をかりあつめたことがある。それと同じやり方でこの扶余神宮を全朝鮮の中学生やなんかをかりだして敷地をつくりあげようとした。私の学校の先輩で当時朝鮮で英語の教師をしていたひとから、「昭和17年(1942年)に扶余神宮をつくることやらで、生徒を引率して扶余へ行ったことがあります」という手紙を最近もらったことがあるから実際にそういう企てがあったに相違なく、敗戦とともに整地工事なかばで中断し、中断したままの敷地の上にわれわれは立っているのである。

「しかも官幣大社ですぞ」と李夕湖先生がこのまぼろしの扶余神宮について誇らかに言い放ったのは、これまたわが李夕湖先生の観念の昂揚であるにすぎず、決して夕湖先生が「日帝」を賛美しているなどと誤解してはならないのである。

このことは、夕湖先生が韓国の愛国者であることとすこしも抵触しない。ただ先生がいまはなき百済国に悲傷し、こんにちの扶余のさびれようを嘆き悲しむとき、その想念の中に一大観念世界がうまれ、この扶余の価値がいかに高いものであるかを証拠づけるについてのあらゆるものを動員する。そのなかにまぼろしの官幣大社扶余神宮までが参加しているだけのことで、先生の愛国心とは関係はない。朝鮮人がときに観念で激情するというのは、そういうことである。「そのときの計画では、扶余のむら(邑)も聖地としてきれいになるはずでした。ところが工事なかばで日本は負けてしまった。あと3年」と先生は激しく指を3本つき出した。

「あと3年、日本の敗戦が遅かったら、扶余の町ももっときれいになっているはずです」・・・・・・なにをか言わんやである。ここに扶余神宮ができるために日本があと3年降伏せずにがんばらねばならぬとしたら、当時兵隊だった私は生きて李夕湖先生を拝顔できなかったであろう。出所:「韓のくに紀行」p231より。

鬼室福信

司馬遼太郎の「韓のくに紀行」を見ると本の最後は百済復活運動を率いた鬼室福信(?~663)について語っている。百済復興運動に失敗した鬼室福信は内分で殺され、彼の息子と思われる鬼室集斯(?~688)が滋賀県近江の蒲生郡に百済の流民と渡り定着した。滋賀県日野町小野の西宮神社から「鬼室集斯墓」と書いてある八角の石柱が発見され、歴史的事実として根拠付けられた。今は鬼室神社を改名し、鬼室福信を祀っている扶餘郡恩山面と蒲生郡日野町とは姉妹都市になっていて交流活動が行われている。今回の扶余旅行は、1300年の時間を超えて今の時代に生き残る歴史の生命力を感じる実に面白い旅になった。また今度チャンスがあったら、他の百済と日本との関係を語ってくれる場所に行ってみたいと思った。- 2015.6.15 -