www.KAMPOO.com
Since 2004

現在地: ホーム > 韓国旅行 > 京畿道 > 仁川 > 仁川港歴史散策

仁川港歴史散策

仁川(인천)はソウルの窓口として1883年に開港して以来大陸と海洋からの列強による近代歴史上の多くのストリーを持っていて、特に清(中国)と日本の覇権争いの場になっていて両国ゆかりの遺産が沢山残っている。

清・日租界地境界階段

開港期 外国人の集団居住地であった租界は、この階段を基準として左側の清国租界と右側の日本租界に分けられる。階段の上側には2002年に中國淸島市が寄贈した儒教の開祖孔子の像が海を見下ろしている。租界は19世紀に西欧列強が東洋に進出するにつれ武力を利用し通商条約を結んだ後に開港場で自国の主権を行使しながら住める領土を確保するための目的からできた地域だった。

アジアではイギリスが中国と条約を結んで1845年に外国人租界を設けたのを皮切りに1858年には日本も米国、イギリス、フランスなど西欧の5カ国と通商条約を結び東京、広島、長崎など5箇所に租界を設けるようになり、韓国では1876年に釜山港を始め1880年には元山、1883年9月30日には開港場である仁川の済物捕に日本を始め西欧の国と条約を結ぶようになって租界ができた。

自由公園(자유공원)

仁川開港直後、各国の租界地が設定された後、外国人らによって最初の西欧式公園である各国公園(1888)が応峯山一帯に造成された。これは1897年に建てられたソウルのパゴダ公園(現タプコル公園)よりも9年ほど早く建てられた。

※マッカーサー銅像:自由公園内にあるこの銅像は1950. 6. 25北朝鮮の南侵で国家が累卵の危機に処している時、マッカーサー将軍があらゆる難関を押し切って仁川上陸作戦を強行し、戦勢を変えた業績と、韓国国民の愛情と友情を称えるため、マッカーサー将軍銅像建立委員会が1957. 9. 15自由公園に建立。

日本第一銀行仁川支店

1883年11月日本の第一国立銀行釜山支店の仁川出張所として出発した。1909年中央銀行である韓国銀行が創立されて、第一銀行仁川支店が韓国銀行仁川支店に変わった。ちょっと見ると昔の中央庁の建物に似たところがあるこの建物は、中央ドームを設置した石造単層の後期ルネサンス様式だ。 解放後に調達庁仁川事務所など主人が変わるたびに増築されたり改築されたりしながら、外観が少しずつ変形されたが基本骨格はそのまま維持されている。現在市の有形文化財第7号に指定されている。位置:仁川広域市中区中央洞1街9。

日本58銀行仁川支店

(旧)58銀行は日本大阪に本店を置く58銀行の仁川支店で、1892年7月に開店した。その後第3銀行など小僅銀行と合併し安田銀行に変わった。1939年新築されたこの建物は光腹後に朝與銀行仁川支店、大韓赤十字社京畿道支社などに使用されたりもした。 現在中区飲食業組合が入居しているフレンチルネサンス様式の2階建ての建物は、初期様式建築の特徴をよく表しており、外観はレンガ組み構造物に石板仕上で構成されている。2階バルコニー形式が異国風の雰囲気を醸しだしている。(市有形文化財第19号) 位置: 仁川広域市中区中央洞 2街 19-1。

日本18銀行仁川支店

18銀行は1890年に竣工、同年10月に開店した。中央洞2街24番地にあり、58銀行のすぐ隣に 位置しており、1954年には韓国興業銀行として利用された。 18銀行は日本が韓国の金融界を支配しようとする目的で建てられた銀行であった。18銀行だけでなく、その当時建てられた日本銀行は全て、韓国金融界の日本植民地化という目的であったということは、天一銀行を除く7つの銀行をはじめ、13ヶ所の保険会社が全て日本の所有であったことから充分に理解できる。 1954年に商工銀行と信託銀行の合併によって発足した韓国興業銀行支店として利用されて以来、 1992年まではカフェとして、その後中古家具問屋が賃貸で利用したりした。 位置:仁川広域市 中区中央洞2街24-1。※十八銀行群山支店

(旧)仁川郵便局

仁川の郵逓史は我が国の郵政史とその軌跡をともにする。甲申政変が起こった年の‘1884年に郵政総局が設立されたし、その年の11月17日に郵政総局仁川分局が開院された。ソウルより先に郵便業務が開始されたことにより、仁川郵便局は事実上韓国の郵政業務の起源ともいえる。 (旧)仁川郵便局は1923年に新築されたが、去る1982年仁川市有形文化財第8号に指定されるほど、西洋と東洋の建築様式が絶妙に調和された貴重な文化遺産である。 現在、仁川郵便局は延壽区庁に移転、建物だけが残っている。 位置: 仁川広域市中区港洞6街1。

旧済物浦クラブ(仁川中区文化院)

中区文化院は近代史の流れと軌跡を共にし、波瀾万丈の生涯を送った建物だ。1901年6月に落成されたこの建物は、仁川に居住していたアメリカ、ドイツ、ロシア、日本人達の社交場である済物捕クラブとして建てられた。 当時には社交室、図書室、ビリヤード場などがあった。1913年租界制度が撤廃されながら日本在韓軍人会仁川連合会が入居し情芳閣が入ったし、開放後には米軍の将校クラブとして使用されたりもした。休戦後には我が国最初の公立博物館である仁川私立博物館が設立され、1989年に博物館が延寿区玉蓮洞に移転するまで市民達の愛情を一身に受けていた。

下の階(32坪)が上の階(85坪)より面積が小さい仮分数形態のレンガ風2階建て建物で、窓や屋根の形が西欧風だ。建築的特徴は別にないが、仁川地域の洋館がほとんど姿を消してしまう現状にあって、それだけでもよく保存されていてその価値が大きい。現在市の有形文化財第17号に指定されている。 位置: 仁川広域市中区松鶴洞1街7番地。

虹霓門 (홍예문)

元々 虹霓門とは上頭部が虹の形をした門をいうが、今は自由公園にある石門の固有名詞になってしまった。日帝強占期に中央洞、官洞などに日本居留民達が急速に増えることによって、万石洞方面に自分達の領域を拡張するために繰り抜いた石門だ。1905年に工事を開始したが、予想外に巨大な岩石が多く3年かかり完成した。 岩盤の上に建てられた門だけに、完成するのに3年かかった。 仁川港を一望できるだけでなく。爽やかな谷風が吹き市民達が足繁く通う所でもある。 位置: 仁川広域市中区松鶴洞2街20番地。

沓洞聖堂

フランスパリ外邦船教会所属べレム神父が、初代本堂神父として赴任することにより沓洞の丘の上に設立された。1890年7月に聖堂建築定礎式を行い、1897年にゴジック様式の平屋建てが建てられた。 現在の姿の沓洞聖堂は1933年に昔の聖堂の建物を保存しながら外観を連歌で積み上げて、1937年に完工した聖堂でロマネスク様式を帯びている。中央の塔上部と両側の小鉄塔の上部に尖塔ドームを載せ美しい外観を形成している。(市跡第287号)

大韓聖公會 仁川内洞敎會

英国の国教である聖公会が韓国に第一歩を踏み入れたのは1890年9月からだ。コルペ主教は仁川に韓国最初の聖公会教会である聖ミカエル教会を設立し宣教活動に入った。 これが聖公会仁川内洞教会である。内洞教会は翌年の10月に隣に仁川最初の西欧式病院である聖ルカ病院を建てた。当初の教会の建物は1891年9月30日に竣工したが韓国戦争の時に焼失し、現在の建物は1956年6月23日に竣工されたものである。 位置: 仁川広域市中区内洞3番地【現 仁川聖公会】。

仁川駅

朝鮮末期京仁鉄道起工址は桃源洞に位置している。 京仁鉄道は韓国初の鉄道で、1897年3月22日牛角峠(スェプルゴゲ)で起工式を行った。1899年9月18日に仁川、鷺梁津間の21マイルが開通し、 その後漢江鉄橋が竣工されて1900年7月8日、京仁(今のソウルと仁川)間の26マイルの全区間が開通した。 ここは最初の鉄路予定線(桃源峠から公設運動場側を通って仁川女子商業高校の下に至った)と 開通線(現在の鉄道と同一)が交差する地点で、桃源峠のことをいう。 ※その他仁川開港ゆかりの跡地

新浦市場(신포시장)

小さい頃お母さんの手をつかまえてぶらついた新浦市場は、思い出と情が感じられる所で、相変らず私たちのそばにある。1930年代新浦市場を「鶏前 : タクジョン」と呼んだことに由来した食べ物の一つである「鶏カンジョン(チキンナゲット)」は新浦市場の名物で、味わおうとする人々でいつもにぎやかである。鶏カンジョンのやや辛いながらも甘ったるいピーナッツの香りは待つ人々の鼻先を刺激して、長い列を待ちながら話に花を咲かせる人々の顔には幸せなほほ笑みが一杯である。これ以外にも新浦市場では精米所、手芸店、洋靴店、雑貨店、恐喝パン屋、果物屋など、様々な店鋪が入っていて、買いたいものは何でも手に入れることができる。また市場には外人を相手にした店も多く、異国的な風物を感じることができる。