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仁川の外国人墓地

現在仁川にある外国人墓地は開港場に来ていた外国人を埋葬した実質的な韓国最初の外国人墓地である。1883年に開港して以来仁川(인천)は首都ソウルの関門という地理的な位置のために政治、軍事、外交、経済、交通など各分野でとても重要な役割を担っていた。これに朝鮮の利権を狙った日本と清(中国)、ロシアや欧米列強が続々と仁川に上陸してきた。そして開港場である仁川港周辺に租界を造成し治外法権の特権を享受した。

当時駐在した外国人が急増するにつれ当然死亡する外国人も増えてきて、それらのための墓地を作る必要性が出てきて租界別に共同墓地を造成うるようになった。中国人墓地として義莊地と中区の栗木洞(율목동)にある日本人墓地、中区北城洞(북성동)にある外国人墓地がそれであった。開港場の西側にあった外国人墓地には開港当時から1950年代まで仁川で活動した外交官、通訳官、宣教師、船員、医者などが中心になっていた。1914年に租界が撤廃された後、各国の領事館が管理し続けたが1941年に1万6千500㎡が鉄道敷地として受容され9千900㎡の敷地しが残らなくなった。韓国戦争中に一部の墓が破壊もしくは流失されたりしながら管理してきたのを1965年に今の延壽区青鶴洞(청학동)53番地へ移るようになった。青鶴洞に移った外国人墓地は総面積が1万9千8㎡の規模で現在66基(米国17、ドイツ人11、イギリス人9、ロシア人5、イタリア人3、オーストラリア人2、オランダ人2、フランス・カナダ・スペイン・ポーランド・チェコ・中国人が各1ずつ、未確認が11基)の外国人が眠っている。

外国人ぼちはソウルにもある。ソウルの外国人ぼちは楊花津(양화진)にある。ここに初めて墓地がつくられたのは医療宣教師として韓国にきて活動していたJ. W.ヘロン(1856~1890, 韓国名 蕙論)が1890年に伝染病で死んだのでここに墓を作ったのである。当時外国人墓地は仁川しかなかったので仁川に埋葬すべきだったが真夏だったので遺体を運ぶのも混乱で当時ソウルで活動していた外国人たちの要請があり紆余曲折のあげくに1893年に楊花津(양화진)にも外国人墓地ができるようになった。面積は約1万3千200㎡ くらいで朝鮮時代末期(高宗時代)から韓国のために働いてくれた言論界、教育界、宗教界などの外国人550人の墓が集まっている。一方で日本にも横浜や函館に外国人墓地がある。

日本人墓地

日本人墓地は1884年に仁川市中区新興洞(신흥동)に初めてできた。死者は壬午軍乱(1882年)と甲申政変(1884年)の時に死んだ日本人が殆どだそうだ。その後何回かの移転を経て、当時の日本人墓地にあった墓の一部が今仁川家族公園に移ってある。ここには中国人墓地もある。(仁川家族公園:仁川市 富平区 富平2洞 山57-1)

先駆地(선구지)

韓国初の天日製塩の試験地で、1908年日本人である大倉ニカオクが中国から製塩技術を取り入れ、ここに約3,000坪規模の区域を決め、第1塩田試験地を作った。さらに、1912年には88町歩に確張し、仁川経済の活性化と住民生活に少なくない影響を及ぼしたが、埋立工事と産業化の波に押され、去る1969年に廃止された。(位置:仁川広域市 富平区 十井洞 558-7)